神農

神農

神農(しんのう)、炎帝神農(えんていしんのう)は、古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人。人々に医療と農耕の術を教えたという。神農大帝と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされている。薬王大帝(やくおうたいてい)、五穀仙帝(ごこくせんてい)とも。

神農は医療と農耕の知識を古代の人々に広めた存在であると伝承されており、その名は最古の本草書『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)の書名にも冠され残されている。

伝説によると神農は、木材をつかって農具をつくり、土地を耕作して五穀の種をまき、農耕をすることを人々に伝えた。また、薬となる植物の効用を知らせたとされる。そのために薬草と毒草を見極めようと神農はまず赤い鞭(赭鞭)で百草(たくさんの植物)を払い、それを嘗めて薬効や毒性の有無を検証した。神農の体は頭部と四肢を除き玲瓏透明で、内臓が外からはっきりと見えたという。もし毒があれば内臓が黒くなるので、そこから毒が影響を与える部位を見極めたという。その後、あまりに多くの毒草を服用したために、体に毒素が溜まってしまい、最終的には罌子(ケシ)を服用したとき亡くなったという

民衆に五穀を栽培することや適切な土地を判断すること(農耕)。あらゆる植物を吟味して民衆に食用と毒草の違い、飲用水の可否(医療)を教え、民衆に知識を広めた。まさにこのとき多くの植物をたべたので神農は1日に70回も中毒した」とある

本草学の始祖であるという伝説的な存在であることから、本草学の書物には「神農」という名を含んだ書名の存在したことが見られるが、その古い時代のものの多くは散逸して残存しているものは少ない。

「伏羲が没すると神農が治めた。神農は木を加工して農具を作り、農具は1つの道具で、たくさんの人が作業してるかのように作業が捗りました。このことから道具はまさに神とし道具を神のように大切にしまし民衆に使い方や手入れを教え広めた。これは「」という卦を参考にしたのだろう。また神農は昼に市場を開き、民衆を呼びよせた。市場ではあらゆる商品が集まり、人々が交易して帰ると、それぞれは望む物を手に入れていた。これは「噬嗑(ぜいごう)」という卦を参考にしたのだろう」とある。

神農の時代に物々交換などの交易をする市場や店がはじめて出来ました。

神農は初代炎帝ともされる。初代炎帝は、古代中国の王で、姓は姜。120歳まで生き、長沙に葬られたといわれている。もしくは陳に置いていた都を魯に移し、140年間在位したとも伝えられている。『帝王世紀』には五弦の琴を発明し、また伏羲の作った八卦を2段に重ね、さらに研究して8×8の六十四の卦を作ったとある。神農の末裔たち炎帝神農氏は黄帝との衝突ののち合併・融合した。この子孫が後の漢族とみなされている。

伝説では炎帝と黄帝は異母兄弟であり、炎帝は少典氏が娶った有蟜氏の子で、共に関中を流れる姜水で生まれた炎帝が姜姓を、姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗ったとある。また『帝王世紀』には、神農は、母が華陽に遊覧の際、龍の首が現れ、感応して妊娠し姜水で産まれ、体は人間だが頭は牛の姿であった。火の徳(木の次は火であること、南方に在位すること、夏を治めること)を持っていたので炎帝とも呼ぶ。

茶書の多くが「『神農本草経』に,神農は一日に 72 毒に中るも茶で解毒したとある」と述べて いる.それが事実でなく,清朝までの医薬書にも見えない文であることを『茶の医薬史』(思文閣出版 2009 年)で明らかにした.では,なぜそうした伝説が生まれたのか,成立の経緯を考察したい. 最古の茶書『茶経』で陸羽は「茶の飲を為すは,神農氏に発す.(茶之為飲,発乎神農氏.)」と,神 農を喫茶の始祖としたが,神農とはどのような存在だったろう. 神農は戦国時代の『孟子』から見え,諸子百家の農家の人々が,君主も民とともに農耕に従事すべき だという神農の教えを広めていたという.『呂氏春秋』になると,神農は黄帝とともに理想の古帝王と され,『易』繫辞伝・下には,神農は農具を開発して農耕を教え,市場を開設して交易を教えたという 農業神とされた.さらに『淮南子』修務訓に「神農は百草を嘗め,その滋味や甘苦を認識して,人々に 取るべきものと,避けるべきものを知らせた」といい,医薬の祖ともされるようになった. 晋代の『帝王世紀』(『太平御覧』721 所引)で,神農は炎帝とも称されている.炎帝と神農を称する ことは,司馬遷の『史記』五帝本紀から既に見え,焼畑農業との関連から農業神・神農に付された名称 とされる.『捜神記』巻一では,神農が赭い鞭を使って,百草を見分けたと説く.また「三皇本紀」(唐 代になって司馬貞が『史記』巻首に補足した部分)でも,農業神であった神農が,薬としての適否を見 るために赭鞭で草木を鞭打ち草(薬)を嘗めたとする.しかしここまで辿っても,神農が毒に中るも茶 で解毒したという文は見えない. さて,元末明初に著された『医経溯洄集』(王履 1367年ころ)の巻頭第一に「神農百草を嘗るの論(神 農嘗百草論)」があり,「『淮南子』では神農が毒に遇うところで終わるが,ひどい毒ならば,神農は死ん でしまったはずだ.どうして解毒し,蘇ったのか」と神農が解毒した理由を求めた. 明代になると,周游『開闢衍繹』に明の王黌(子承)が施した注解に「神農の体は玉のように透明で あったので,五臓の様子をみることができた.そこで一日に十二毒に中っても,直ちに見て対応でき, 百足虫を腹の中に入れると,それぞれが一足となり,さらに千変万化して,毒を消した」とする.ここ では七十毒ではなく十二毒となり,また毒を消すのは百足虫だが,この解毒方法はいささか荒唐無稽で ある.そして清代の孫壁文『新義録』および陳元龍の『格致鏡源』巻二一「飲食類・茶」になって,よ うやく「神農は毒に中るも茶で解いた」という文章が確認できる. このように「神農が毒に中るも茶で解毒した」という伝承は,清代になってから現れたとみられ,そ の成立には,このような経緯が辿れる.つまり漢代の『淮南子』の文は,神農が毒に中ったところで終 わる.それに対して,元末明初になると,酷い毒ならば神農は毒に中って死んだはずで,死ななかった とすると解毒方法があったのではないかと疑問が呈される.明代になると,神農の体は透明なため毒の 所在が分かり,百足虫が体に入ってその毒を消すと発想される.しかしその発想は荒唐無稽なため,清 代になると解毒作用のある茶が,その役割を担うものとして登場する. 冒頭に述べたように,最古の茶書『茶経』で陸羽は神農を茶の飲用の開始者とし,「神農食経」の文 も引用した.陸羽が茶の飲用の開始者を,医薬の祖でもある神農としたことで,茶の薬効を高く評価し, 茶の起源を薬用とみなしたと推察される.清代では,茶に解毒作用のある(宋・楊士瀛『仁斎直指方』 等)ことは周知のことであった.そこで『淮南子』の問題に茶の解毒作用を結び付け,茶の飲用の開始 者・神農は医薬の祖でもあると発想され,さらに『神農本草経』に書かれるとして箔を付け,広まった 伝説と考える.

 

 

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